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すずめの戸締まり - 新海誠監督と宮崎駿監督 の闘いの物語 [ネタバレ有り]

昨日、映画「すずめの戸締まり」を見てきました。

インディーアニメからのし上がった、新海誠監督のメジャー作品の3本目になります。

suzume-tojimari-movie.jp

 

見終わった瞬間、すげー!滅茶苦茶ことやってる。と身震いしながら思ったのですが、同時にエンタメ作品としては面白いか?観客に伝わってるか?という点で疑問が残る作品でした。

岩戸鈴芽(すずめ)と宗像宗田(そうた)って何?地震って何?ダイジンって何?

 

観客の多くはそんな謎が多くありつつ、正体がよく分からない巨大な敵と闘う話として楽しめられた方、またツマラナカッタ方も多く居るのではないかな、と思いました。

今回はこの作品が本当に伝えたかったことは何だろう?という点について、独断と偏見による感想文を書いてみたいと思います。

※なお、以下の文章は読みやすいように断言口調で書いてます。ただ私が個人的にそう思ってるだけなので、これを鵜呑みにしないでください。

また話したい内容から、どうしてもネタバレ有りになってしまうので、必ず先に劇場で見てください(あと、なるべくIMAXで見てあげてください。新海作品の映像美は、どれも最高です。)。

 

 

新海震災三部作 - 君の名は と 天気の子 と すずめの戸締まり

新海監督の作品といえば、ボーイミーツガールを素晴らしい表現力で描くことです。これは新海監督作品の一貫した点で下に挙げる作品以前(声の庭、秒速5センチメートルなど)、以後でも普遍的に変わりません。

 

新海誠監督作品で多くの人が知っているのは、君の名は でしょう。この映画は2016年に公開され、新海監督の知名度を大きく上げた作品となりました。

君の名は 公開当初は新海監督のファンの人がメイン層で、俗にいうアニオタ層が多く見ていたのでは。その後にロングテールで波があり、非常に多くの人に感動系2010年代東京ラブストーリーとして認知されていきました。

が、この 君の名は のテーマは「東日本大震災震災にどう向き合うか」でした。震災から5年、大地震を作中では隕石という比喩表現にすることで、大切な人を失った日本人全員に問いかけている作品でした。

 

次作は2019年に公開された、天気の子です。

天気の子は大雨に見舞われる東京に住む、晴れ女(陽菜)と田舎から出てきた男子(帆高)が出会い、そこで数奇な体験をするというストーリーです。

こちらはテーマとしては、東日本大震災というより将来的に起こる関東大震災を大雨という比喩表現にしています。そしてそうなっても、また人々は普段と変わらない生活を過ごすのだ、と読み取ることができます。

 

が、天気の子には作家性が強い意味が含まれています。それは新海監督自体が「自分のエゴで他の多くの人を傷つけたとしても、自分が作りたい作品を作るんだ」という点です。

作中、主人公である帆高は東京(=世界)と陽菜のどちらを取るのか、という選択肢に悩まされます。そこで帆高は陽菜を取るのですが、その後に次のセリフを言います。

もう2度と、晴れなくたっていい。青空よりも、俺は陽菜がいい。天気なんて、狂ったままでいいんだ!

この意味は新海監督の非常に強いメッセージで、自分のエゴイズム(=恰好やフェチなど)を優先したとしても、大好きなもの(作品)を作るんだ、それで世界や他人が狂っても。という強い意志が含まれています。

それまで無名(注意 : オタク業界では有名だった)だった新海監督。君の名は で世界に震撼を与え、影響力を持った時にどのように捉えれば良いか、という示唆が入っています。

 

同じくそれまで影の下のクリエイター。ただ数奇な運命でひょんなことから、世界を変えてしまった監督がいます。そうエヴァンゲリオン庵野監督です。

庵野監督はエヴァンゲリオンで一躍ブーム(=世界を変えて)しまい、「オタクなんて●んでしまえ!」「もっと現実を見ろ!」と現実と作品の中で苦しむようになりました。

結果として同じく東日本大震災をテーマにした作品「シンゴジラ」を作り出し、冒頭に以下の文章を作中人物の遺言とし、今後の作品づくりの表明をおこないます。

私は好きにした、君らも好きにしろ

これをトリガーとしてシンエヴァ、シンウルトラマンやシン仮面ライダーのように、庵野監督自身が好きなものを作る事を開始したわけです。

 

そういう点で新海監督と庵野監督は、同じ震災をテーマにした作品の中で似た表明を行なっています。しかしながら、天気の子では加えて「他人に迷惑をかけてでも、自分の好きなものを作る」という点が加えられているのです。

 

長くなりましたが、3作品目のすずめの戸締まりではどのようなテーマを語っていたのでしょうか。これも前の2作品を踏まえた上での作品となります。

後世、これらの作品群は新海震災三部作と呼ばれるようになると思います。いずれも東関東大震災に向き合い、そして監督自身の所信表明を組み込んだ作品群です。

 

すずめの戸締まりはどう生まれたのか

今回の作品は東日本大震災より世界を変えてしまったコロナ禍という災害、もとより天気の子で表明した自身のエゴイズムの肯定から何を見せてくれるのか、とても大変だったのではないか、と感じるのです。

まずストーリの大きなテーマとしては、真に東日本大震災と対峙すること、向き合うことを選んだというところです。

これまで監督作品では比喩表現として東日本大震災隕石が落ちる、大雨が降るを用いていました。物語として成立させるため、かつ日本人が傷ついたこの震災に対して目を向けさせるためにこのような表現にせざる終えなかったのではないでしょうか。

今作の主人公の鈴芽は過去に東日本大震災に被災して親を亡くし、九州で育てられているというバックグラウンドがあります。

それまで秒速5センチメートルから天気の子まで、東京をファンタジー化し、東京で生きるというストーリーづくりから大きな転換であることは間違いが無いのです。

 

次に大いなる父を倒すというテーマです。大いなる父とは誰のことでしょうか?はい、あのスタジオジブリ宮崎駿監督ですね。

宮崎駿監督といえば、知らない人はいないジブリのアニメーターであり監督です。そして日本のアニメーションを支え、ボーイミーツガールアニメ映画監督の重鎮です。

ボーイアンドミーツ作品だけ上げても沢山あります。未来少年コナンルパン三世 カリオストロの城ナウシカラピュタ魔女の宅急便耳をすませば(これは、厳密には脚本)、ハウル…など。

ボーイミーツガールアニメ映画の父、宮崎駿監督を超えなければならない。すずめの戸締まりではその解として、あろうことか宮崎駿監督を映画に引っ張り出し、新海誠監督が闘う話として成立させたのです。

ダイジン = 宮崎駿監督

ここまでで映画を見た方はお気づきでしょうか?そうこの映画はダイジンを宮崎駿として構図で描かれているのです。

そしてダイジン(宮崎駿監督)を追いかける、鈴芽と宗田を新海誠監督として描く構図となっているのです。もちろん追いかけるというのは宮崎監督自身に追いつく(ボーイミーツガールもといアニメ映画業界の重鎮として)という比喩表現であるのです。

すずめは好き。お前は嫌い。

劇場のはじめ、ショッキングな一言ですがこれも「新海、おれはお前のことが好きでもあるし、(クリエイターとして)嫌いだよ」という、宮崎駿監督が思っているであろう気持ちを代弁させます。

上記の捉え方をすると、このすずめの戸締まりはとてもシンプルな話となるのですが…エンタメとして面白いか、というとそこは難しい評価になると思います。

※なお宮崎駿監督作品で猫といえば魔女の宅急便ですが、ご本人は豚として自画像を描かれることが多いですね(紅の豚も宮崎監督がモデルとのこと)。なのでプロット書く際に、ダイジンを豚にすることも考えたのではないでしょうか。

なお旧エヴァではシンジ=庵野監督、ゲンドウ=宮崎駿監督として描かれていた説もあるので、実は滅茶苦茶やってること同じなんですよね。

気づいて欲しいから散りばめる

多くの人はこの映画を見て、「ジブリっぽい何か」だと思うはずです。まぁそうですよね、そういう風にオマージュ演出しまくってます。

鈴芽と宗田は、ハウルの動く城だし
最初行った廃墟は温泉街、千と千尋だし
ミミズの光った線の描写は、風の谷のナウシカ
ルミと着物を着てお風呂掃除する、これも千と千尋だし
ルミと女の子同士とたわいもない話をする、魔女の宅急便だなぁ
靴を片方落とす、となりのトトロ だな
バーで働く良い女?紅の豚 ぽい
ルージュの伝言流しながら移動する、魔女の宅急便 じゃん 
二人で自転車を漕ぎながら恋について語ったりする、耳をすませば ですよね

 

特に運転しながらルージュの伝言を聞いているシーンには、流石に笑ってしまいました。いやいや分かってるから大丈夫よ、気づいてるよ。と

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もちろん今回の敵はダイジンなので、もちろん宮崎駿作品のオマージュも出てきます。東京の地下はルパン三世カリオストロの城の地下潜入シーンですし。

ダイジンが鈴芽と入水する時もカリオストロの城でルパンがクラリスを庇って入水する所と混ぜたり。あと後者は平成たぬきぽんぽこも混ぜて、表現してあるのかなぁとも思ったりしました。

多分他にも宮崎作品のオマージュがたくさんあるはず(すみません、勉強不足)…

宮崎から抜ける

あとは物語の開始位置は宮崎県でしたね。はいこれも、"宮崎"監督だからですね。

宮崎県のお住まいの方には大変ごめんなさいなのですが、今回の舞台は"場所として"宮崎である必要は全くなかったとは思います。地方名も架空の町ですし。
※おそらくジブリから崖の上のポニョぽい場所を選んだのかなと。
SNSでも宮崎弁が下手だった、という意見があるけどそれもこだわりがないから、じゃないかな…

ただ、オープニングの文字が出た後に「宮崎放送」というヘリが出てるシーンがありましたが、個人的にはゾクっときました。「これからお前(新海)、何をやってくれるのか上から見てるぞ」という意図で構図が描かれてるのでは、と思います。

 

後、有名な宮崎監督一派をもじった表現がありましたね。そうミミズが倒れるシーンです。あれも新海監督があまりやってなかった演出で、エヴァ使徒の消滅シーンのような描かれ方でした。

そう、先ほど話した庵野監督ですね。もともとジブリナウシカ巨神兵などを描いていたので、宮崎駿監督とも縁が深いわけです。そして庵野監督が風立ちぬで演じた二郎は、東京首都直下地震に見まわれますよね。あれ、この話どこかで…

 

今回のすずめの戸締まりではそういった宮崎駿監督ら、がやったことを追いかける。というのがテーマの一つであるわけです。

常世と要石

これはメインテーマに近い所ですが、この話には常世について何度も語りが行われます。では常世とは何でしょうか。

色々な考えはありますが、常世はアニメーションの比喩ではないかと考えています。現実とは異なる理想を見せる世界、また物語終盤に訪れるリアルより恐ろしい世界、その世界は一枚のドアの向こうにアニメーションという世界に存在している。
※だから鈴芽はドアの向こう素晴らしい常世を見ることができても、その中には自分が入る事はできないわけです。あくまでその世界はアニメーションなので。

宮崎の要石(ダイジン)は昔はアニメーションを支える重鎮だったわけですが、鈴芽(=新海監督)によって千と千尋の神隠しを抜いてしまう(=興行収入として)わけです。それを要石として表現されているのだと思います。

物語中盤に要石は宗田(=新海監督)に代わり、最寄アニメ映画を支える重鎮として支えるわけです。だから東京まで行って、宗田は要石になるのですね。
※ここらへんで、何で神戸から東京まで一直線なんだ…と思ったり。

作中、宗田は神戸の廃墟遊園地でダイジンが「ぼくはもう、要石にはなれない。」と言い、東京では「君が要石になれ」と言われるわけです。宮崎駿監督は「もうアニメーション映画を支えるポジションにはない、新海、君が頑張れ。」という新海監督なりの解釈が作中に入れられているのかな、と思いました。
※もちろん宮崎駿監督が「君たちはどう生きるか」を作られているので、最後そういう風にもう一回要石になってもらうのですが。
※まぁ、ここの表現について色々言いたい人がいるのもわかる。

要石になること

アニメーション映画で重鎮(=要石)になることは自分のフェチや趣向を捨てることになります(万人受けしないといけないからね)。宗田は要石になる決断をし、自分を捨てて東京を支えることにします。

この表現は新海監督が個性を捨てて、アニメーション映画業界を支える気持ちが表されているのでしょう。このことを作中「要石になる(=死)」として表現しているのではないでしょうか。

結果として新海監督は「君の名は」で日本のアニメーション(正確にいうと、アニメーション映画)を救ったことを比喩表現として、このシーンを作っているのではないか、と思うのです。
※もちろん 君の名は で開幕初っ端にTSF入れてきたましたが。いつもに比べるとフェチズムの絶対量は少ないよ、ぐらいの意味合いで捉えてください。

なぜ戸締まりをしないといけないか

前述に紹介したように、常世をアニメーションと定義すると宮崎駿監督が要石であったアニメへの決別として読み取れます。

また新海監督はあまり社会的描写が得意で無いという点も押さえておくべき点だと思います。ボーイミーツガールの重鎮ではありますが、その周りの実物描写については人格がない、無機物的な描写がされることが多いです。
※私の知り合いで新海監督作品の登場人物について、人間性が酷い人しか出ないと言ったり。

今作はそんな中、鈴芽は宗田とだけイチャラブするのでなく、色々な場所で色々な人と触れ合いそして人物描写をより精細に描こうとする取り組みが見えるのです。

だからこそ「この周りに住んでいた人のことを考えて」「お返しします」と言いながら、宮崎駿作品(および精神後継作品)からの決別、宮崎駿作品からもらった影響をお返しし、そしてそれを超えること目標として宣言しているのではないでしょうか。

そして奮い立たせるようにクライマックスに向かいます。

火垂るの墓東日本大震災

クライマックスシーン、火垂るの墓を思い出した方も多いのではないでしょうか。

これまでの新海作品とは全く異なる、ファンタジーでも虚構でない真の意味で現実の震災を悲しくも美麗な映像になったことは、ファンの中で最も異質な体験になったのではないでしょうか。

この映像については言わずもがな、高畑勲監督に近づこうとする気持ちの表れになったのではないか、と考えています。そして高畑勲監督は宮崎駿監督が尊敬し、かつ未だ超えられなかった人の一人です。

高畑勲監督が火垂るの墓でどうにもならない悲惨さを伝えたように、新海監督もすずめの戸締まりで同じ悲しみを伝える挑戦を行なっているのではないでしょうか。

なお火垂るの墓の舞台は神戸市と西宮近郊が舞台の作品。そういえば作中で鈴芽たちはどこに行きましたっけ…?

そして宮崎駿監督作品以外に戸締まり対象となったのが、東日本大震災。これまで新海誠監督は本作含め3作品を大震災と絡めて描いているのだけど、このすずめの戸締まりで震災関連のシリーズは終わりになるのではないか、と思う。

だからこそ新海震災三部作として、今作が最終作品になるのではないかと思う。次回作は全く見たことがない作品になるのではないかと思う。多分次作の構想について、めちゃくちゃ本人悩んでいる気がする。

とりあえず劇場に見に行ってくれ

結論としては、新海誠監督作品「すずめの戸締まり」は新海監督が宮崎駿監督と闘い、東日本大震災を戸締まり(封印)する超スペクタル映画。

なのだけど、ポスト君の名はを望んでいた人が欲しいものだったのか?ないしは、エンタメとして面白いかというと分からない。だから★5をつける人も多いし、★1をつける人もいるのも分かる。

ただ映像から伝わる、溢れんばかりの熱量は凄い。すずめの戸締まりばかりで、RRRどこもやってないじゃないか!RRR見たい!という人も分かる。

そんな人にはこの言葉を送ります、「すずめとRRR、両方行け、そして膀胱を鍛えろ」